TSP(東京サウンドプロダクション)

Nabe

キャメラマン 龍木 博さんと「撮影よもやま話」

撮影 TECHNICAL

龍木さん4

 

龍木さん7

龍木 博

昭和25年 徳島県生まれ

昭和54年 TSPとフリーキャメラマン契約

 

テレビ朝日モーニングショー『日本の社長』

『人生の楽園』『田原特番』『食彩の王国』『グレートマザー物語』『宇宙船地球号』

テレビドキュメンタリーキャメラマンとして活躍

スチールキャメラマンとしても多方面に活躍 写真集出版

 

福富 実

昭和35年 千葉県生まれ

昭和59年TSP入社

キャメラマン

 

有本 竜

昭和51年 東京都生まれ

平成11年TSP入社

カメラマン

 

福富:龍木さんがキャメラマンになるきっかけと、どのようにキャメラマンになったか教えてもらえますか?

 

龍木:子供の頃から映画とか写真には興味があったんです。

ただそれは、芸術とか仕事にするという感じじゃなかった。高校で写真部に入り、写真現像所でアルバイトしたお金を苦労して貯めてNIKON-Fを買ったんです。映画は好きだったけど、田舎には名画座みたいなものは無く名画は東京に出てから見るようになったんですね。だから、白黒でもテレビは私にとっては貴重な情報源だったんです。

 

それで、伊丹十三さんの『遠くへ行きたい』という番組をよく観ていた時に“こんな番組を作る側になりたい、できれば撮影をしたい”と思うようになったんです。その番組はがんじがらめに縛られたスタジオ製作とは違ってドラマとも違う魅力を持っていた。子供心にも斬新なドキュメンタリー紀行ものの手法は、自分がこの先何を撮りたいのかという方向性が見えてきたように思ったんですね。この辺りから撮影の為の独学を始めたんですね、勉強といっても最初は雑誌を集めたり本を読む程度だったんだけどね。そこで、しがらみの多いテレビの世界から伊丹さん達何人かが苦労してテレビマンユニオンという制作会社を立ち上げ、いまに続いているということを知ることになりました。のちのフリー助手時代2本ほど『遠くに行きたい』に参加することができ、少し夢が叶った。世の中はベトナム戦争まっただ中60年安保反対闘争、成田紛争など東京の騒がしさが田舎の町にも伝わりだした頃です。

 

高校時代、近所に大阪のテレビ局の方が駐在員として下宿していて、遊びに行った時にカメラをいじらせてもらいいろいろ教えて頂いた。確か16㎜カメラB&Hのフィルモだったと思う。今思えば当時ただのカメラ好きの学生に仕事の道具をいじらせてくれたと思います。それが後で随分役に立ったんですよね。そんなこともあり友達に“テレビで仕事がしたい”という話をしたら、徳島大学の工学部でテレビ関連の授業があることを聞きました。これはチャンスだということになり少し偽学生になって講義を聞きに行きました。そこでは、テレビ技術の現状やテレビの未来について教わりました。当時はまだCCDなどなく、プランビコンとかサチコンとか真空管で撮影していて、テレビでは太陽は撮ってはいけないとか撮れないということを授業で知りました。当時はVTRもとてつもなく大きく2インチビデオで収録していて、まだ編集が出来ない為編集が必要な作品はフィルムで撮影し、どうしてもという時には高価な2インチテープをカミソリで切断してつなぐという現状を教えて頂きました。ですから、ロケはフィルムに頼らざるを得なかった。写真でフィルムを知る自分としては16㎜で作るドキュメンタリーの世界は知れば知るほどはまり込んでいきました。この手法はテレビ番組だけではなく成田闘争や水俣病等後世に伝える貴重な記録映画にも使われていて、取材しながら現場に入って行く伊丹さんの背中で16㎜カメラが回っている光景が目に浮かぶような、当時の大きなテレビカメラではできないスタイルだったと思います。だから、まだまだフィルムの余地あるということも知りました。だけどいずれフィルムは無くなるよとという話もあり、今はそれに近づいているなと感じます。

 

その後、知人を通じて東京のテレビ関係の仕事を紹介してもらいました。現像所で働いていた経験を生かし撮影助手希望ということでお願いしました。フィルムの知識があるならってことでプロダクションに撮影助手として使ってもらえました。都内に住んでいる大学生の友達の家に居候して、四国の田舎からいきなり東京のテレビ番組制作会社に就職が決まったのです。その会社はTBS映画社の関連子会社でS株式会社。当時社長以下20名程度でTBSの番組を製作完パケで納品していた。社長と副社長が企画演出脚本という家庭的な会社で、社員カメラマンが2名いて撮影助手の仕事は付きっ切りで教えて頂き何か間違えると“田舎に帰れ!”と言われながら仕事を覚えました。そして5年助手をやってカメラマンに育ててもらいました。とても良い会社に拾ってもらえたと思っています。S社の当時の主な仕事は、TBSのレギュラー番組で『新日本漫歩』『味の散歩』どちらも5分枠でCM外すと実尺約2分半くらいと短いが、週に5本づつ合計10本。10日ロケに出たら20項目撮ってこいというのがノルマ。社内は結構忙しい、手が足りない時はフリーに発注するが予算が合わずに外に出せない実情も手に取るようによくわかる家庭的な会社。自転車操業に陥り石油ショックの後見事に傾き私は希望退職することになる。憧れのS社ではカメラマンとして撮影していたが、会社のそとでは通用しないことは自分が一番わかっていた。田舎に帰るよりもフリー助手として東京でやっていくと決意し、当時S社に出入りしていた88光映社の助手グループが声をかけてくれてフリーの助手として仕事が続けられてTSPとの出会いにもなった。

 

当時のS社の保有カメラ機材は、同録機材はエクレールNPR1、ナグラ1サイレント、ARRI ST16㎜、国産16㎜2台、ARRIFLEX16ST1、アンジェニューズームレンズ12-120㎜。(会社にズームレンズがこれ一本しかないのでいつも奪い合いに。いつもマウントアダプターを付けて各カメラで使いまわしていた。新人はカメラのセットレンズ3本でどんな仕事も勝負するしかなかった)補助カメラとしてボレックス、B&Hnoフィルモ(スプリング駆動なのでバッテリーの心配がない)同録でマルチ撮影の時は他の機材を88光映社からレンタル。ARRI16BLもよくレンタルとして使っていた。

 

私の父がアマチュアカメラマンで家に暗室を作って現像の技術を学び、現像所で写真の基礎を勉強させてもらった。学校では撮影の勉強は特別していません。すべて独学なので私自身偏見と偏りがあります。S社に同時期に助手の仲間が何人か出入りしていたが映画学校とか写真専門学校出身者で、そうでないのは私だけで寂しい思いもしました。

 

ある日 “カメラマン増員するのでテストをするから、おまえやるか?”という話が先輩から助手達にあり、S社5年目の私も社内のカメラマンテストを受けさせていただくことになった。そのテストの問題とは、与えられたフィルムで自分のテーマをみつけてできるだけ手短に映像で話を作ってこいというショートフィルム。もちろんカット編集のみで字幕スーパー、ナレーションなどは無し。撮影はカメラに付属のセットレンズ3本のみ。その頃ズームレンズは高価で貴重で貸してもらえずフィルムは使い残りの寄せ集め、一人50feetもらえればいいほうで、もちろん現像は棒焼きで補正焼きなどさせてくれない。ですから、露出の測り間違えは致命的になる。与えられた50feetのフィルムとベルハウエルのフィルモという古典的なニュース用のカメラを持って1週間もさまよってなんとか50feetの大作を完成させ無事ラッシュ試写を終え、私はS社の3人目のカメラマンとして新番組に加わることになりました。時代は連合赤軍事件の頃かな。

 

有本:どのようなきっかけでTSPで撮影されるようになったんですか?

 

龍木:88光映社というフィルム機材のレンタルと技術スタッフを派遣する会社にフリー撮影助手として出入りしていました。人手の足りない時、88からの仕事もいただいていて声がかかるようになり、フリー撮影助手としてテレビ番組以外の世界を見て技術的にはずいぶん勉強させていただきました。贅沢なCMとかはライティングの違いは大きかった。16㎜と35㎜の違いもよくわかりテレビだけでは知らなかった35㎜の世界をこの頃CMの仕事を通じてよく知りました。

 

その会社からテレビ朝日にフィルムのクルーとして出向していて、モーニングショーなどの撮影を担当していました。当時はフィルムとビデオの狭間の時代だったんだけどTSPがビデオカメラを導入してスタッフを集めていたんですね。それで声がかかって一年間フリー契約でお世話になりました。ですから、それ以前はフィルムのカメラマンだったんですが、TSPと仕事をするようになってビデオのカメラマンになったんですね。

 

その頃TSPが使っていたビデオの機材が東芝のCK-38とUマチックポータブルレコーダーを組み合わせて使うENG一号機。決して使いやすいカメラではなかった。CK-38では後の『日本の社長』シリーズは撮れなかったでしょうね。CK-38はサチコン撮像管ENG一号機として放送博物館に展示してあるんじゃないかな。

 

有本:フィルム撮影についてもう少し詳しく知りたいんですが、撮影時に渡されるフィルムの量は毎回決まっていたんですか?

 

龍木:フィルムはディレクターが現場に持ってきてましたね。渡される量は基本的には放送時間枠と内容によって違いましたね。通常は放送時間枠の3倍分くらい。5分のコーナーだったら15分収録できる量ですね。

 

テレビ朝日だと撮影課所有のフランスのエクレール社のACLというカメラを使っていました。1本200フィートで約5分の収録が可能でした。音声はナグラでダブル収録(パルスコードでカメラとナグラをつなぎ最初の1コマにランプが灯り同時に音声に発信音が流れ、それをもとに編集時音を合わせる)

 

フィルム取材では収録できる量が限られているので常に計算して、画が欲しいのか音声が欲しいのか同時に考えないとフィルムが無くなる。と同時に取材は終わらざるを得なくなる。どのような画をどれくらい撮るのか、インタビューなんかはだらだら回しちゃうとどっちつかずになるんですね。もちろん音声だけ録れていれば画は適当に編集するという手法も昔からあるがシングルで撮影しているとこれは使えない。

ディレクターとは次は何を撮るのか?インサートは何がいるのか?いらないのか?という話ばかり、いつも意見交換していた。だからコミュニケーションのとれないディレクターと組むのはつらいものがありましたね。

 

フリーになってアメリカクルーに雇われて仕事をしたことがあるんですが、フィルムに対しての考えかたが全然違っていたんです。彼らはフィルムは原稿用紙と一緒で何枚でも使えるだけ使うんですね、制限なんかない。だからフィルムチェンジは大忙しです。

 

88光映社から当時テレビ朝日モーニングショーに出していた機材は

16㎜同録の場合はARRI SRとナグラ、ハンドマイクと416か816

16㎜シングル録音CANONスクーピック、マイク、カメラマン、撮影助手、音声はその都度TSPから派遣、機材がテレビ朝日撮影課の場合は88光映社からは撮影スタッフのみ

撮影現場はフィルムからビデオ、ダブル、シングルワイヤレスマイクなどいろいろ形態が変わり機材も変化してるけど、撮影技法の変わらない基本はあるはずだと思います。

 

福富:僕が龍木さんの助手をしていた時(ビデオ時代)1カットづつすごく考えて撮られていて、とにかく収録テープの本数が少なかったですね。助手の時にはわからなかったけど、自分が撮影するようになってその凄さが本当によくわかりました。フィルム時代には撮影の仕事形態がビデオと違ってましたか?

 

龍木:フィルム時代はある程度自分の技術を認めて頂かないと次の作品に採用して頂けなかった。一度手を抜くとそこの会社から声がかからない。

ギャラもなかなか貰えなかった。ラッシュで写ってるのを確認しないとダメで、自分で確認にも来ないような奴には金を払わないという考え方だった。例えばラッシュの時に別の仕事が入っていたらギャラがもらえない。仕事に懸けるとはそういうことだった。フィルムの仕事は現像してみないとわからなくて、危ないところがあった。試写はスタッフ全員が揃わないとしてくれませんでした。

 

龍木さん6 龍木さん5

 

福富:ビデオ時代に入って、テレビ朝日のモーニングショー宮尾すすむ『日本の社長』シリーズの撮影をレギュラーで担当されてましたね?

 

龍木:テレビ朝日のモーニングショー『日本の社長』シリーズは、会社の社長の私生活と会社概要を宮尾さんの密着レポートで伝えるというもの。ロケにかける時間は一日だけだった。その為北海道から沖縄まで全て日帰り、始発か終電までのロケスケジュールでした。最初は何年頃から始まったのか私の記憶はさだかではありませんが、モーニングショーの1コーナーとしてスタジオ振りを入れて15分~20分くらいの枠だったと思います。それが、宮尾さんの奮闘と頑張りで視聴率が上がりVTR尺が30分を超える時も多々ありました。そういう時はディレクターとプロデューサーは局の廊下の真ん中を威張って歩いているようで面白かったですね。

 

当時の宮尾さんのロケは舞台のごとく一発勝負、宮尾さんは相手の社長を同じ舞台に立たせるために体を張ってやっていて、スタッフ全員に同じことを要求していました。宮尾さんは初対面の社長にも同じ緊張感を要求するためスタッフにもそれを求めたんですね。だから、リハーサルもなしだし身内にもネタをばらさないし、次に何をするかも教えてもらえなかった。宮尾さんは同じ動きを繰り返し要求されるような映画的な撮影との違いに拘っていらしゃいました。

宮尾さんは、社長の動向を研究しつくして制作の渡した資料以上の情報をいつも仕入れていました。初対面のはずなのに知り尽くしているんです。また一切リテイクなしの生中継スタイルでの撮影でした。二度と同じことはできない、常に一発で決める

”もう一回おねがいします“は絶対になかった。それは宮尾さんに教えられた部分で、長くやっていてよかったです。

 

確か番組スタートはUマチックVTRがスタートした頃と思います。当然カメラ一体型VCR以前の話で、カメラは池上社の79A, VTRは、ビクター4700だったかな、それがだんだんVTR SONYの110、Uマチックからベータカム一体型へ、テープも20分から30分テープに変わりました。しかし、撮影スタイルはそのままワンパターンで続けました。最初の頃は特にカメラの感度が低く、さらにコントラストに弱い。レンズも当時TSPがワイドズームのレンズを持ってなかったんで、引けなくて苦労しました。いつも玄関先で宮尾さんと社長のツーショットをどう撮るかが問題でしたね。レンズが引けないので、朝一番にお邪魔した玄関でスタッフが機動隊ともめてる学生みたいな感じです。

 

“出会う前からマイクを付けているわけないだろう!”とか“玄関にライトを仕込めないよな”とか大忙しです。ライトはバッテリーライト頼みの撮影で、“影を考えながらライトを当てろ!”、持続時間とテープの残量を常に考えながらの戦いでした。毎回ロールワンはハサミを入れる隙間もなかったでしょうね。

演出などできるはずもなくディレクターは一番後ろで見ているだけという状態でした。

カメラの性能は感度が低く、宮尾さんが社長のほうを向いていれば成立するといった簡単なものではなかった。ワイドレンズとガンライト、ワイヤレスマイクがないと成立しなかった番組だと思います。

当時はテープ一本が20分だったんです。宮尾さんは舞台の上で20分の生放送を撮影する意気込みでロケをしていたんです。テープ交換まではこの状態でほとんど編集しないで使っていたんではないかと思います。でも臨場感は本物ですから充分見れてしまう。ひとつのスタイルを作った番組でもあるんじゃないでしょうか。大企業からラーメンチェーンの社長までいろいろ取材させて頂きました。

 

福富:だから撮り逃すとかもう一回なんていうのは考えられない。ましてやテープやバッテリーが途中で無くなるなんて絶対に許されないことでした。助手は次のシーンでどれくらい撮影するのかを計算しなければならない。テープの本数は限られているのでやりくりが難しかったです。10分で足りるだろうとスタートして僅かに足りない、こんなこと許してくれませんでした。

カメラはもちろん1カメで一発勝負。社長やいろいろな人達が次々出てくるし、宮尾さんのレポートをいかにカメラワークしてより面白くする。20分の間常に使える画を撮っておかなければならない。

これは本当に大変だったと思います。

 

龍木:宮尾さん曰く“おれは舞台の上で真剣勝負してるんだから、お前たちもやれ!”です。

 

福富:当時一般的に撮影の技法として、1シーン1カット流れで撮影するってことは殆ど無かったように思いますが。

 

龍木:1シーン1カットはなかったですね。

ただ満員の舞台の上でやってると思えばたいしたことない。初めての場所でいつも生中継してるようなものです。

 

福富:1カットずつ切って撮るのではなく流れ、1シーン1カットで撮るという当時あまり使われない新しい撮影技法でした。初めて助手をやらせて頂いた時、龍木さんと宮尾さんのフットワークの良さに驚きました。1カット目で龍木さんのバックステップについていけず、足を踏まれて後ろにぶっ倒れてしまった。朝一番のワンカット目スタートがかかってすぐでした。“おまえよーいい加減にしろ!ちゃんと出来るのか?”って感じでみんなに呆れられたのをよく覚えています。

宮尾さんは絶対に手を抜かないから撮影の為にゆっくり歩いたりすることない、とにかく着いていくのが大変でした。そんな中でカメラを何食わぬ顔で振っていらっしゃる龍木さんが信じられませんでした。

 

有本:ご自分のキャリアを振り返って思うことはありますか?

 

龍木:撮影の技術者を目指して上京したんだけど、今思えばジャーナリストの知識をもっと勉強するべきだったなと思います。わたしが若かったころは写すのが大変だったけど今はカメラを向ければ誰でも写せますよね。

何を写すか?どう構成するか?

撮影する前後のことも勉強する。政治経済すべてのことに知識が必要だと思う。

 

福富:昔の撮影は特殊技能だったんですかね?

 

龍木:昔は写真を見ればよく写ってるね!みたいな話だったんだけど、今は携帯電話でも簡単に映像が撮れる時代。この画にどんな意味があるってことを説明できて、それを利用して世の中の為に使えるだけの知識と能力が伴わなければ何の意味もない。

その為に何を勉強しなければならないか考えないと取材に来た意味をちゃんと説明できないとダメだと思う。仕事に来ましたってただ現場に行ってるだけじゃ。先方は誰であれジャーナリストだと思ってしまうんだから我々技術スタッフも自分なりに準備が必要だと思わないか?

 

龍木さん3

終わり

 

今後 龍木さんには、作品作りに携わる撮影スタッフだけでなく制作、編集、効果、MAなど すべてのスタッフのよき大先輩であり、素敵なアドバイザーとして弊社に参加して頂く事になりました。

弊社スタッフの携わった作品の評論や、撮影に関する様々な事 テクニックや心構え、経験談を聞かせて頂く。また逆に我々スタッフの思いを龍木さんにぶつけて相互通行でディスカッション出来ればと考えております。

 

 

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